
よく一般の方々は、建築家は設計依頼があると、すぐにスケッチや模型を作り始めるものだと思っているようですが、実際のところはそうではなく、最初にヒジョーに地味で、つまらない作業をしなければならないのです。その名は通称「法規チェック」。建築基準法その他に照らし合わせて、敷地にどのような広さで、どのような高さの建物が建てられるかチェックするのです。
まず、敷地のある役所に出かけていき、都市計画図を購入します。この都市計画図とにらめっこすると、その敷地の容積率や建蔽率、斜線制限、高さ制限、日影規制などがわかります。しかし、これだけでは不十分で、今度は道路課にいき、敷地の前面道路の幅などを調べます。さらに、建物がマンションだったりすると、清掃局にいってゴミ置場について話を聞いてきたり、福祉課にいってエントランスのドアの幅が何センチ必要か調べたりします。そして、忘れてはならないのが消防署。ここで、いくつ消火器をおくかとか、避難の出入口がどれくらい必要か、なんてことを担当者を交えて打合せするのです。
このような作業を連日続け、関係部署を一通り回り終わると、膨大な数のチェックリストが出来上がります。これは、それこそ敷地によって千差万別。役所によっては、言っていることが、他の役所と180度違っている事も良くあるので、油断できません。話はそれますが、僕はこの役所によって、法規の解釈が違うということは、かなりひどい事なのではないかと思います。だって簡単にいうと、杉並区ではオッケーなのに、世田谷区ではダメーということでしょ。法の下の平等なんてあったものじゃない。
さて、こうして出来上がったチェックリストを、製図台(今ではキーボードですが)の横において、やっとスケッチその他の作業に入れるのです。こう書くと、建築家も結構やるときはやるもんだな~と思います。(剛)
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右は、1969年10月に発行された「建築」という雑誌で、その年の8月に亡くなった建築家のミース・ファン・デル・ローエ氏の、追悼特集号です。この雑誌を、神田神保町の古書店で見つけた時は、いや~、かなり興奮しましたね。
今でこそ、雑誌「カーサブルータス」や「ペン」などの影響で、一般にもよく知られているミースですが、十数年前は近代建築の三大巨匠の一人であるにもかかわらず、かなりマイナーな扱いを受けていました。バブル絶頂期の建築界は、いわゆる「ポストモダン」が幅を利かせていて、「モダン」の旗手、特にミースに対する風当たりの強さは相当なものでした。やれ、「退屈だ」「何もない」「冷たい」などという批判が、まかり通っている時代なのでした。
そんな時代にミーシアン(ミースシンパ)を宣言することは、まさにイバラの道を歩むようなものでした。当時僕が在職していた事務所では、フランク・ロイド・ライトシンパやルイス・カーンシンパが多かったので、まさに四面楚歌、孤軍奮闘、臥薪嘗胆(これはチョットちがうな)というありさまでした。
そんな状況が一変したのは、バブルがはじけて、不況が深刻化し、浮かれた「ポストモダン」が終わり、「ネオモダン(なんだそりゃ)」という世代の建築家が台頭して来たときからです。ヘルツォーグ・アンド・ド・ムロンやレム・コールハースといった建築家達が、ミースからの影響を繰り返し述べたことにより、ミースの再評価の気運が盛り上がってきたのです。同時に、日本では「ミッド・センチュリー・モダン」がブームとなり、さらにその前の「モダン」の建築家達が脚光を浴びるようになりました。そんなこんなで、今の「カーサブルータス」などでは、ミースはほとんど神様扱い。つくづく、世の中いいかげんなもんだなと思います。
話は戻りますが、前出の何々シンパ。これは例えば「ミースのシーグラムビルが好きだ!」とか、「ライトの落水荘はサイコー!」とか、変わったところで「コルビュジェのクルチェット邸は、君達も見ておいたほうがいいよ。地球の反対側だけどね。ふふふ~ん。」なんていう他愛もない会話を、仲間内で交わすことで、ほとんど小学生レベル。はたで見ていると、みんなアホに見えますが、結構この会話が大切で、これからの自分がよって立つ建築観を確立する為の、重要なトレーニングになっているのでした。
とまあ、こんなくだらない話にうつつを抜かしながら、僕の20代は過ぎていったように思います。(剛)
時には犬のように:ミース
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2004年2月18日に、友人の建築家村上太一氏を誘って、東京湾マリーナに進水間近のヨット(形式的にはカッター)を見に行きました。そのカッターの製作者は、佐野末四郎氏。新木場で「SANOMAGIC」という木造艇専門の工場を経営されています。ヨットに関してはド素人の僕達を、佐野さんは温かく迎えてくれ、様々な話を聞かせていただきました。
このカッターのフレームは、チークの積層材。外板はマホガニー。外板と外板の間には、「マキハダ」というコーキング材を詰めます。内装材も構造として利用し、全体の軽量化を図っているそうです。そして、マストは米松のピーラー材。中をくり抜いた上で接着して、中空材としています。このカッターの、重量は全体で3.7tほどですが、鋳鉄のバラストが1.7tもあるので、その他の部分がとても軽量に仕上がっていることがわかります。
ひとつ佐野さんの話の中で印象に残ったことは、「マホガニーの価値は、これから年月を重ねる中で、美しい赤味を帯びた色に変色していく事だ。」と言う話でした。基本的に今の世の中で流通しているものは、皆新品、建築で言えば新築時が最良で、あとはただひたすら朽ちていくのが常識なので、軽いカルチャーショックを受けました。

最後に、佐野さんが高校生の時に製作した「プリティエンジェル号」と、2002年のヨーロッパボートショーに出品したランチボートの二艇を見せてくれました。もちろん、とても美しい赤味を帯びたマホガニーの船でした。その後しばらく、このランチボートの姿が、頭から離れなくなってしまった僕でした。(剛)
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2003年10月、「au」から衝撃的なデザインの携帯電話が発売されました。名前は「INFOBAR(インフォバー)」。デザイナーは無印良品などを手掛けている深澤直人氏。それまで、あまりケータイに興味がなかった僕にも、「INFOBAR」の革新性が一瞬でわかりました。
まず、そのカタチ。それまでのケータイはストレート型、折りたたみ型を問わず、曲線主体の、よく言えばオーガニック。悪く言えば、デザイナーが思いつきで描いたとしか思えないようなモノばかりでした。その点、「INFOBAR」は直線主体で構成され、非常にシンプルなデザインでした。なぜこのようなカタチが、それまで存在しなかったのか不思議になるくらい解りやすいデザインです。
次に、あのボタン。通常ボタンはフェイスプレートに埋め込まれるような形で、各々のボタンが独立して配置されていますが、「INFOBAR」ではボタンとボタンの間にプレートは存在せず、ボタン同士は互いに隣接してセットされています。このことは、ボディ全体の強度が低下することを意味し、その為にボディの素材を、通常のプラスチックではなく、マグネシウム合金にすることで、この問題をクリアしました。しかし、その効果は絶大で、「タイルキー」と呼ばれる、丸みを帯びた大きなボタンは、押しやすく、手触りもサイコーです。
そして最後は、カラーリング。通常は高級感を出す為に、パールやメタリック塗装を施しますが、「INFOBAR」はソリッドカラー。なかでも「NISHIKIGOI」と「ANNIN」は、ピアノのような光沢の塗装を施しています。ボタンのグラフィックも秀逸。
そんな「INFOBAR」も、もう店頭では見かけなくなり、次期モデルに取って代られています。去年買った「NISHIKIGOI」は、大事に使わなきゃな~。(剛)
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我家のダイニングテーブルは、イタリアの「テクノ社」が製造している「ノモス(NOMOS)」と言うモデルで、デザイナーは「香港上海銀行」や御茶ノ水の「センチュリータワー」で知られる、イギリスの建築家ノーマン・フォスター氏。最大の特徴は、その昆虫のような脚を持つフレーム。このフレームはシステム化されていて、様々なバリエーションに展開することができます。それこそ照明器具を付けたり、棚をつけたり、製図台になったり、天板の高さを上下させたりと、あらゆる状況に対応することが、可能なようにデザインされています。まさに、「ミニチュア建築」の形容詞がふさわしいテーブルだと思います。
僕達が、このテーブルを購入したのは1997年で、発注したのはその年の夏頃でしたが、納品されたのは12月になっていました。まあ、クリスマスプレゼントですね。価格は、僕達が建築設計事務所勤務と言うことで、かなりディスカウントしてもらい、さらに川崎港の発送センターに引き取りに行くことを条件に、なんらかんらで18万円ほどで購入しました。これはなかなかリーズナブルな値段で、「カッシーナ」のコルビュジェのガラステーブルが、30万円ぐらいすることを考えると、かなりお買い得と言えるでしょう。
フレームの材質はスチールで、アームはアルミのキャスティング。仕上はクロームメッキ。天板は15mmのフロートガラスで、アームに取付けられたゴムのパッドに乗っかっているだけです。フレームは片手で持ち上げられるくらい軽量なのに、天板は恐ろしく重くて、大の大人二人掛かりでやっと運び込みました。
「ノモス」の実物を最初に見たのは、それこそ「センチュリータワー」の中でのことでした。受付スペースにセットされた、そのテーブルの美しさに、早い話参っちゃったわけですね。その後、「秀光」で「ノモス」を取り扱っている情報をキャッチした僕達は、浜松町のショールームを覗きに行きました。(剛)
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1999年5月に、黄色い小さい車が我家にやってきました。名前はFORD KA(フォード カ)。由来は「生命の源」を表わす古代エジプトの象形文字からとったそうですが、なんとも人をくったネーミングにあきれてしまいます。この黄色い車が我家の一員になったいきさつは次の通りです。
当時結婚2年目の僕達は、ホンダの「CB400SF」という、400ccのオートバイ(これもカラーは当然イエロー)に乗っていました。しかし、さすがにネギ1本買うのも、オートバイで行くのはチョットつらいと言うことになり、ちょうどCBの車検の時期ともかさなったので、イッチョウくるまでも買うかーという話になりました。そこで、早速自動車雑誌を買いあさり、リサーチしてみると、何台か気になる車が浮上してきました。
まずは、トヨタの「ヴィッツ」。「ヴィッツ」は当時発売されたばかりで、パッケージングもいいし、燃費もいいし、スタイルもそこそこだと思ったのですが、夏代がどうしてもフロントグリルの造形が許せないと言い張り、そうそうにOUTとなりました。次は、ルノーの「トゥインゴ」。この当時でも発売されてから5、6年は経っていましたが、そのキュートなスタイルとオシャレなインテリアは、全然色褪せてなく、僕の中で結構ポイントが高かったのですが、左ハンドルしか設定がなかったので、後ろ髪を引かれるおもいで、OUTとしました。そして最後に目に止まったのが、「KA」だったのです。
当初この車は、発売直後で、様々な雑誌に紹介されていました。しかし、普通発売直後の車は、だいたい3割増しぐらいにかかれているので、そのことを差し引いて読み進めてみると、「KA」の実像を読み取ることが出来ました。まず第1に、外観とは裏腹にメカニズム自体はかなり旧式だと言うこと。なにせ、エンジンはOHVだし、最高出力は60馬力しかないし、フロントブレーキはただのディスクだし、燃費だってせいぜい10km/l止まりで、取り立ててどうこう言うほどではありません。第2に、スペース効率が悪い。乗車定員は4名で、スラントしたリアハッチのせいで、リアシートとトランクは結構狭そうです。第3に、この車はどう見ても日本では売れないだろうなと言うこと。あくの強いスタイリングと、マニュアルトランスミッションのみの設定は、チョット日本では受入れ難いのではと感じました。
以上はマイナスポイントですが、プラスのポイントもありました。それは第1に、右ハンドルの設定があること。いくら小さい車でも日本で使用するのには、右ハンドルが有利なのは当然です。第2に、一見メカニズムは旧式ですが、その分シンプルで実用域の使用に重点を置いた走行性能であること。そして最後は、やはりそのスタイル!第一印象は、訳のわからん格好やなーとおもっていましたが、しばらくするとこのファニーな車に夢中になっていました。
そして、結局そのスタイルが決め手となり、世田谷街道沿いの「フォード成城店」に、イソイソと二人で出かけていくことになりました。(剛)
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新宿歌舞伎町の裏通りに、ひっそりと佇む「林原第5ビル」は、僕が建築の道を目指し始めて、最初に夢中になった建築です。設計者は、ロイズ・オブ・ロンドンで有名なリチャード・ロジャース氏。竣工したのは1993年5月ですが、その数ヶ月前に僕は現地を訪れ、その姿に興奮していました。
そもそも、なぜ僕が竣工前に、このビルの存在を知っていたかと言うと、以下のとおりです。当時僕が在職していた事務所では、文京区本郷でオフィスビルの設計を進めていました。そのビルでは、外部階段を錆の問題から、ステンレスを構造材に使う予定でした。その図面を見た金物業者の方が、今うちでこのような物件を施工中ですと紹介してくれたのが、「林原第5ビル」だったのです。その後、日経アーキテクチュア誌にも工事中の記事が紹介され、どうしても実物をこの目で確認したくなった僕は、独り自転車に飛び乗って探しにいきました。場所は歌舞伎町のどこかとしか、解らなかったので、地図を片手に、山手線付近から探し始めましたが、実際には明治通りのひとつ裏の路地に建っていたので、かなり探すのに手間取りました。それ故に、黄色いエレベーターシャフトの先端を遠くから見つけた時は、宝物でも掘り当てたような気分になりました。ちょうどその日は日曜日で、工事も休みだったので、歌舞伎町だというのに辺りはシーンと静まりかえり、アトリウムのガラスファサードの美しさがとても印象的でした。しかし、現地を訪れてみて驚いたことは、周辺がラブホテル街という立地と、3メートル程しかない前面道路の狭さでした。いくら企画された時期がバブルの絶頂期とはいえ、この立地では資金の回収はかなり難しいのではと思います。それにこの道路。これでは大きな重機は入れないので、資材の搬入や現場作業にかなり制約があったと思います。
とまあ、このような感じで、「林原第5ビル」へのファーストコンタクトは、大きな感動と数々の疑問をのこして終わりました。その後も、暇を見つけては、ちょくちょく工事現場に足を運んで、工事の進捗状況を見守っておりました。(剛)
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